夕霧の元服
源氏と朝顔は何も変わらぬ手紙だけのやり取りが続いていた。そのころ、源氏と亡き葵の上の子、夕霧の元服(げんぷく・成人式)の日が近づき、葵の上の実家である大宮の家で執り行うこととなった。
夕霧の冠位は栄えある源氏の長男ということで四位は固いだろうと皆思っていたが、源氏は夕霧を六位とした。
あまりに低い冠位ゆえに、大宮は不平を述べたが、有力貴族の子ゆえに高い冠位を授かって奢った人生を送るべきではなく、学問を修めて立身出世させたいとの考えを源氏は示す。
夕霧も低い冠位にがっかりしたものの、学問を早く修めて世間に認められるように精進しようと、大学寮に入り、これまで住んでいた大宮の家から二条院の東の院へ移って勉学に励んだ。
時を同じくして、冷泉帝の后を決める段となった。秋好が選ばれるか、それとも大納言(頭の中将)の娘である弘徽殿女御かと周囲はざわめく。また紫の上の父で今は式部卿宮(しきぶきょうのみや)と呼ばれているかつての兵部卿宮もまた、王女御を入内させていたので、やはり気を揉んでいた。
結果、秋好が中宮となった。幸薄かった六条御息所に較べ、なんと幸運の女性なのかと世間は噂した。同じく源氏は太政大臣に昇り、大納言も内大臣となる。
小さな恋の物語
内大臣(頭の中将)には娘が二人いた。ひとりは弘徽殿女御で、もうひとりは雲居の雁(くもいのかり)という。かなり前に離縁した元妻は今は按察大納言(あぜちのだいなごん)の妻となっており、内大臣に引き取られた雲居の雁は祖母にあたる大宮の家で育てられていた。
同じく大宮に育てられた夕霧とは幼馴染になり、仲良く過ごすうち、お互いほのかに惹かれるようになる。
そして夕霧が二条院の東の院に詰めるようになってからは、雲居の雁と気軽に会うことも叶わなくなり、手紙だけでのやりとりが続いていた。
ある日、内大臣は大宮と雲居の雁のもとを訪ねる。内大臣は大宮に雲居の雁を春宮の元服にあわせて入内させるつもりだと明かす。大宮も夕霧のことが頭によぎるものの、入内は悪い話ではないと考えた。
3人で琴を演奏し唱歌していると、夕霧が現れる。内大臣は夕霧と雲居の雁の間を離し、琴の音さえも聞かせてはならないとばかりにしているので、女房たちは「知らぬは親ばかりなり」だと陰口をたたいた。
しかし、その陰口を内大臣が耳にしてしまい、二人の淡い関係に激昂する。せっかく春宮に入内させようとしていたのに、夕霧というとんだ邪魔が入った、ということである。
内大臣は大宮に苦情を申し立て、雲居の雁を自邸に引き取ると宣言。大宮は訪ねてきた夕霧に一部始終を話した。
今以上に逢う機会が減ると知った夕霧は雲居の雁の部屋に向かうが、錠を挿していて入ることもできない。雲居の雁もこんな大げさなことになってしまって為すすべもなく、ただ嘆くばかりである。
さらに内大臣は秋好中宮の威光にかすむ弘徽殿女御を里下がりさせた。冷泉帝も渋々承知する。弘徽殿女御の話し相手にちょうどよいと、内大臣は雲居の雁を引き取りに大宮の屋敷にやって来た。
大宮は孫との別れを嘆き、雲居の雁もただ泣くばかり。夕霧は雲居の雁とともに物陰に隠れて、離れ離れでいてもお互いを思っていようと誓いあう。雲居の雁を探しに来た乳母が二人を見つけて
「六位の男が相手では情けないこと」と口悪く言うのを聞いた夕霧は、自分の冠位が低いことで蔑まれるのだと悔しがる。
ついに雲居の雁は内大臣邸に連れて行かれた。夜通し泣いた夕霧はこんな姿を人に見られるのも恥に思い、そっと退出した。
夕霧の悩み
新嘗祭の時季となった。五節の舞(ごせちのまい・新嘗祭で歌に合わせて舞われる舞)に、源氏は従者の藤原惟光の娘を五節の舞姫として選んだ。その準備に追われる混乱に乗じて、夕霧は五節の舞姫の顔を見ることができた。
早速夕霧は手紙を送るものの、惟光に手紙が見つかってしまう。しかし惟光は咎めるどころか、主人の源氏が一度目をかけた女性はずっと大事にする性格であることを思い返し、五節の舞姫を宮仕えに出すよりも夕霧の妻としたほうがいいかもしれないと考えた。
雲居の雁とも連絡できず、五節の舞姫ともどうなることか見込みもつかないまま、夕霧はやるせない気分で年を越した。
二月。冷泉帝は朱雀院のもとへ行幸(ぎょうこう・訪問)した。宴となり、源氏も朱雀院も昔を懐かしむ。
また、夕霧も試験で好成績を修め、秋には従五位に昇進した。
六条院の落成
源氏はかねてから新邸を造営しており、ようやく完成した。六条御息所の邸宅あたりを大々的に造り替えたのである。紫の上の父・式部卿宮の50歳の祝いの宴も、その新邸で執り行うつもりだった。式部卿宮は今までの源氏との不仲を考えると、ありがたい話だと感じるが、紫の上に悪感情しかない式部卿宮の妻はなにぶん面白くない。
新邸は六条院と呼ばれ、4つの区画に分かれている。
辰巳(たつみ・南東)の町は源氏と紫の上の住まいで桜や梅など春を思わせる庭を造った。
丑寅(うしとら・北東)の町は花散里と夕霧の住まいで夏を感じさせる水辺や橘、撫子、竹を配している。
未申(ひつじさる・南西)の町は六条御息所の邸宅の跡のため、秋好中宮の里下がりの場として秋らしく紅葉と滝の庭。
戌亥(いぬい・北西)の町は明石の君の住まいで、冬の雪に映える松の庭であった。